| 徳川家康は秀吉にとっては最大のライバルだった。 |
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徳川家康は織田信長の天下統一事業の最大の協力者として他の武将から一目置かれる存在だった。延永の政権基盤を引き継いだ秀吉も、一旦は家康を力でねじ伏せようとしたが失敗し、さまざまな政治的手段を用いて、どうにか臣従させていた。全国の大名の中で最大の領地を誇り、軍巧者として知られていた家康は、名実ともに秀吉の最大のライバルだった。 |
| 徳川家康の呼子駐留 |
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天正20年(1592)1月、秀吉は全国の大名に出兵を発令し、徳川家康もこの命令に従い九州を目指し、その軍勢は15000もの大軍だったと考えられています。 |
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もと豊臣秀吉の侍医(小瀬甫庵)の覚書より
朝鮮国御進発之人数帳
肥前国名護屋在陣衆
一万五千人 武蔵大納言殿(=徳川家康)
一万人 大和大納言(=豊臣秀吉)
八千人 加賀宰相(=前田利家)
太閤記 巻13
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天正20年の4月中旬ころ(遅くとも4月25日以前)に、家康は名護屋に到着します。最初、徳川全軍は呼子に滞在したと考えられますが、下に掲げた史料に記されている事件がきっかけとなって、中心部隊は名護屋城近くに移動したようです。 |
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伊達政宗の家臣(伊達重実)の日記より
・・・・それより先は、どの大名も鎧、兜をといて平服のまま行軍し、名護屋にようやく着いた。徳川家康公、前田利家殿は名護屋城の北側に入り込む海を隔てた対岸に(呼子町殿の浦)陣を置いた。政宗も同じ名護屋北方の陣屋に落ち着いた。・・・中略・・・6月末のとても暑い日、家康公の陣屋の下に水場があったが、利家殿の兵がその水を汲もうとした。それほど豊富な水場ではなかったので家康公の兵は彼らを制止しようとしたが、利家殿の兵は、無理押しして汲もうとして小競り合いになった。集まった利家殿の家臣に大身の武士は一人もいなかったが、家康公の家中からは、本田忠勝殿を初めとして大名級のかたがたが10人ばかり出てきて、双方の喧嘩を止めようとしている様子であった。しかし、兵は弓矢をつがえて鑓のさやを払い、一触即発の睨み合いとなった。睨みあいが納まった後、徳川、前田両氏の陣屋は名護屋城から遠すぎてなにかと支障があるとの、秀吉公から直接の御沙汰があった。そこで、両氏ともに城のすぐ近くに陣屋が移されたのである。
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しかし、最初に駐留した場所が別陣とはいえ、規模も大きく名護屋にある本陣は家康とその一部が陣を構えただけで、しかもたびたび別陣へきて茶を楽しんでいたものと思われる。
別陣には、将兵が詰めた大長屋の跡や木戸(簡単な門)の跡、足軽たちが滞在したと考えられる小さな建物群が見つかりました。彼らの生活の一端を示す。遺物(土鍋、火鉢、すり鉢、素焼きの皿や杯、漁具など)も出土しています。 |
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その一方で茶室と思われる建物の周囲に玉砂利を敷いた通路「露地」や飛び石、石敷きなどを設けた空間があったことが判明しました。周辺からは、中国や朝鮮で焼かれた陶磁器等が出土しています。
家康が本陣から足を運ぶことを想定していたと推定でき、「下屋敷」としての機能を持っていた陣屋であったことがわかってきました。
また今年の調査では、陣屋の周囲を見渡せる最も高い場所に作られた、物見のための櫓(やぐら)の跡を新たに発見しました。 |
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| ロープで張られた範囲が茶室跡。 奥と手前に2棟あり渡り廊下のようなものでつながっていたと思われる。
広さは各茶室とも約2畳程度しかない。
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茶室入り口に見つかった玉砂利 |